いわけんブログ
風景と樹木 1,2 「ケヤキとサツキの大罪」
2010年3月01日花林舎
風景と樹木
平成20年6月から「花林舎動物記」という楽しい動物のお話を読み切りで掲載しておりましたが、今回から数回は趣向を変え、植物の観点からのお話を掲載いたします。
『すこやかな暮らし発見、岩手から。「家と人。」』という雑誌から「花林舎動物記」の作者である(株)野田坂緑研究所 所長 野田坂伸也氏の記事「風景と樹木」を抜粋し、転載させていただきます。
今回は、第1話「ケヤキとサツキの大罪 -その1-」と第2話「ケヤキとサツキの大罪 -その2-」です。
ケヤキとサツキの大罪 -その1-近年、植物に関する本の出版が増えている。しかし、風景の一部としての植物(特に樹木)という観点から書かれた本はほとんど無い。
私は造園の植栽設計を仕事としているので、前々から、そのような目で見た樹木の話を書いてみたいと思っていた。建築関係者は言うまでもないが、造園業界に携わる人々でも、樹木の知識があまりにも乏しい人が大半を占めるという現状が、我が国の風景を画一的で面白くないものにする一因となっている。そのような状況に波紋を投げかけることができれば本望である。盛岡「らしさ」を表現する木
前例に従い、他人と同じようにしていれば良い、と考えて仕事をしている人が世間には圧倒的に多い。
造園の植栽設計の分野でもまた、同様である。その結果、日本中に特定の樹種がうんざりするほど、どこにでも植えられることになった。
その代表が、高木ではケヤキ、低木ではサツキである。
どちらも美しく丈夫で使いやすい樹種であるから、ある程度多く用いられるのは当然だと思うが、バカの一つ覚えと言う言葉がぴったりするほどの乱用ぶりが我が国の都市景観に与えた影響は大きい。
もう二十五年くらい前のことであるが、盛岡駅前通りの改造が行われたことがある。
その時「街路樹をケヤキにする」と新聞に載ったのを見て、私は驚いた。ケヤキの街路樹は東京をはじめとして全国に掃いて捨てるほどある。
何よりも、東北にはすでに仙台駅前に有名なケヤキの街路樹があるのに、なんで盛岡駅前までまねをしてケヤキを植えるのか、盛岡の個性はどうなるのだ、と思ったのである。
そこで、改善計画をすすめていた組合に手紙を出して私の考えを説明した。組合ではその意見を取り入れて、樹種をイタヤカエデに変更してくれた。一度決定して新聞にまで発表したものを覆すのは大変なことだったと思うが、良く対応してくれたものだと感謝している。
それから十年以上もたってから、この改造計画を受け持ったプランナーと話をする機会があった。
彼はこの樹種変更に大変憤慨した、と直接私に打ち明けてくれた。彼は、仙台のケヤキ街路樹に似せてケヤキのトンネルを盛岡駅前に実現したかったのに、それが出来なくなってがっかりしたのだそうである。
私はそれを聞いて、彼のような優秀なデザイナーが、仙台の風景を盛岡につくるということを良しと考えていることに驚いた。私なら、仙台のまねなど絶対にしたくない、とまず考える。もっとも、建築家の彼にはケヤキ以外の樹木は思い浮かばなかったのだろう、という推測もつく。造園家でも十人のうち八人くらいまではケヤキと考えるだろうから、無理もないとは思う。
盛岡市の夕顔瀬橋のたもとに、シンジュ(神樹)の大木がある。これが実に美しい姿をしている。特に葉を落とした裸木の美しさには、ここを通るたびに見とれてしまう。
数年前、反対側の橋詰めの近くに小緑地が造られて、当然のように一本のケヤキが植えられた。それによって盛岡はローカリティ―(盛岡らしさ)をつくるチャンスを一つ失い、全国画一化へ小さいながら一歩を進めたのである。
ここにシンジュでなくても良い、例えばシナノキ、キハダ、ハリギリ、ハナキササゲのどれかでも植えていたなら、「おっ、なんだこれは」と思う人がきっと何%かはいて、街が少しは面白くなったはずなのである。
ここにどうしてキハダの木があるのか、というようなことから、何か物語をつくり出すこともできたかも知れないというのに。
為政者も設計者も、樹木のことなどどうでもいいと内心では思っているから、前例を踏襲すればそれで良いし、どこでもケヤキを植えているから、ここもケヤキでいい、ケヤキがいい、となる。情けない話である。
ケヤキとサツキの大罪 -その2-
前回はケヤキの話をしたので、今回はサツキについて書く。
サツキはツツジの一種でわが国の造園樹木のなかでは抜群の人気を誇る。バブル経済で造園工事が最盛期の頃は、年間一千万本以上植えられていたといわれている。これほど多用された理由の第一は、サツキが極めて優れた造園木であるということである。
成長が遅くコンパクトにまとまる樹形。しかも刈り込みによって容易に整形できる。常緑の葉が美しいばかりでなく、花も華麗である。移植が容易で病虫害が少なく、挿木で容易に増やせる。サツキやツツジを植えておけば無難で失敗がない。必ず「サマ」になる。こんなに使いやすく楽な造園木は、世界的に見ても少ないのではないだろうか。
多用される第二の理由は、昔から日本庭園で使われてきて、日本の造園家になじみが深いということである。「なじみが深い」などというより、サツキ無しに日本庭園はできないといっても過言ではないほど、二者のつながりは深い。
ところで、わが国が工業大国になったのは資源が少ないために加工技術を発達させ、付加価値をつけることによって金を得るしか方法がなかったからだという説がある。アラブ諸国などは豊富な石油という資源があるから、産業が発達しないのだという考えである。
この説に従えば、日本で造園の植栽デザインが発達しなかったのは、サツキやクルメツツジのような便利すぎる造園木があったからではないだろうか。
日本の造園家は、むやみにサツキ、クルメツツジ、ヒラドツツジを使ってきた。大きな公園や緑地(たとえば工場と住宅地を分離する緩衝緑地)では、数万本もまとめて植えられることもあった。開花期には美しいと言えないこともないが、私にはむしろグロテスクに見える。住宅メーカーの広告写真なども雑木の木立の下にサツキかクルメツツジを密植するというのが、何十年も続いているパターンである。
日本の造園設計家のなかでこのようなサツキ・ツツジ依存症にかかっていない人は百人に一人もいないだろう。しかもサツキや常緑性ツツジは、多雪地や寒冷地ではよく育たないことがあるのに、北国でもこの依存症患者で満ちているのだ。
さらに困ったことに発注者側にもツツジ・サツキ依存症患者が多い。こうして日本中にうんざりするほど同じような景観ができあがってしまった。わが岩手県もまた同じである。
三年ほど前、岩手県北にある県立病院の庭の設計をある建築事務所の下請けでやったことがある。私はもちろんサツキも常緑のツツジも一本も使わない設計をしたのだが、植栽工事が終わって見に行ったら、なんとサツキとツツジが大半を占める庭ができていた。私の設計とは全く無関係の庭になっていて、違う場所に来たのではないかと思ったほどである。
なぜこんなことになったのか、下請けである私には何も知らされなかったが、日本におけるサツキ、ツツジの威力はこれくらい大きい。
しかし近年、個人造園の庭木としてのサツキと常緑ツツジの人気は急落しているそうである。その理由は、これらの使い方が型にはまっていて新鮮味が無いこと、必ず刈り込んで整形するのが人工的な印象を与えるからであろう。私も昨年、ある庭造りの仕事でエクステリア業者が勝手に植えていったサツキとリュウキュウツツジを捨ててくれといわれて、数十本掘りあげて持ち帰った。
こうして今や嫌われものになったサツキ、ツツジ、ドウダンツツジが我が家の畑に溜まる一方であるが、これはあきらかにガーデニングブームの影響であると思われる。
ガーデニングは、季節感があって成長の過程を楽しめる植物へと人々の関心を導いた。サツキはどこへ行くのだろう。
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